先日、広島に行ってきた。
今行われている鞆の津ミュージアムでの死刑囚の絵画展で、田口ランディさんの講演会があり、
その一部で行われる朗読の伴奏を、カイさんが担当することになったからだ。
私のアーティスト写真などを撮ってくれている、津口るいちゃんのお兄さんが
今この鞆の津ミュージアムで働いていて、るいからお誘いを受けたのがきっかけだ。
話を聞いたとき、「ランディさんに会いたい!」と、わたしは飛び上がる程嬉しくて、
カイさんに「ぜったい行った方がいいよ!!」と強く勧めた。
カイさんも、ランディさんはもちろんのこと、この企画展のテーマにも興味を持ったようで
是非やってみたい、とのことで話が進んだ。
いつも、私が歌う ということが先にあって、カイさんに協力してもらうことばかりだけれど、
今回はそのカイさんがメインで頑張る ということで、
なんだか嬉しく、とても楽しみにしていた。

実際行ってみて、感じたことはたくさんあった。
死刑囚の方たちが描いた絵を見られる機会なんて そうそうないと思う。
いざ言葉にしようとしたら、
なんだか出て来ないな。
死刑囚は、死ぬことが刑なので、刑務所ではなく拘置所にいるということは初めて知った。
いつ刑がなされるかも、当日の朝に宣告されるシステムらしい。
なんというか…
すごいことだと思う。
隔離された世界で、みんな毎日何を思いながら過ごしているのだろう。
どうして、
死刑囚になってしまったのだろう。
なにが、そうさせてしまったのだろう。
死 に対して、どのような想いでいるのだろう。
もしかして、冤罪のひとがいたとしたら、そんなことがあったとしたら、
そのひとはどうこの事実をとらえて過ごしていけばいいというのだろう。
いろんなことを思った。
いまも、考えている。
このひとたちにとって、「表現する」ということはどういうことなのだろう。
というか、
ひとは常に、
「表現したい」と思って生きているのだろう、と思う。
わたし、を確立する為に。
確立したいと、
いつも思っていて、
それは、自然な欲求であって、
愛を求めることと 同等なことな気がする。
*********
ランディさんの朗読と講演も、心を揺さぶられて
たくさん泣いてしまった。
朗読したのは地下鉄サリン事件の実行犯である林泰男死刑囚との手紙のやり取りだった。
印象的だったのは、林氏の手紙の中で
『ハエの(蚊だったかもしれない)飛ぶ姿を見るだけでも心がわく』というような部分。
それぐらい、なにもない毎日なのだと思う。
そんな中で、絵を描き始める人や小説を書き始める人が多いそうだ。
それと、
林氏がランディさんに宛てた遺書。
いくつか書いているようで、その中のひとつを読まれた。
遺書か
と思ったら、胸に強い打撃を感じてなんだかそこにいるのがきついなと感じた。
きつかった。
カイさんのギターも、すばらしかった。
ランディさんの呼吸をしっかりと捉えて、
ことばの波長にしっかり合わせて弾いていた。
音楽の力もすごいものなのだとつくづく思った。
本番前のランディさんからの提案で急遽私も一曲、朗読の最後に歌わせていただくことになった。
familyという曲を歌った。
本番前、ランディさんに「レパートリーの中で一番コレ と思うのを、今歌ってみて」と言われて、
カイさんにも「familyじゃない?」と言われて歌った時、
ランディさんが「いいね!ばっちりだね!朗読の最後にお母さんのことを言う文で終わるからちょうどいい」
と言ってくれた。
「なにも考えないでもちゃんとなるようになるんだね。神様の采配だね〜」と、
言ってくれた。
朗読を聞いていて、前半はなんだかこの曲が本当に最後ふさわしいものであるのだろうか?と不安になったのだが、
結果的には、自然に流れに添った形で演奏ができたようで、
本当によかった。
どんな顔をして歌えばいいのか分からなくて、
林さんに向けて歌おうと思って、
歌った。

終演後も、ランディさんも「ぴったりだったね」と言ってくれて、
るいたちも ぴったりだったと言ってくれて、
本当にホッとした。
*********
そのあとのランディさんの講演も、心の奥まで届いてくる内容で、とても刺激された。
小説「コンセント」が、ランディさんの実話を元にしていたとは知らなかったので、
ランディさんが実際のお兄さんの話をしているとき、
感じすぎる私は、
その現場にいるような気持ちになってしまって、
全身が硬直し、
ひどくきつくなって涙がとまらなくて、ちょっとその場から逃げ出したくなった。
でも、
そのお兄さんのことでランディさんの中での何か殻がやぶけて、
「表現したい」という欲求がでてきたという話、
すごく、なんというか、
おもしろい、すごい、すばらしい
と思った。
誰かの目を気にして表現することと、
自らの欲求に対してだけ応えるために表現することは、
ちがう。
そして、
他人は関係なく、自らの気持ちから生まれる表現のほうが、
強く伝わるものを持っていると思う。
バンド活動の最後の方では、いつも私、このことを思っていたんだ。
周りのいうように作るものでうまくいかないのと
自分の思うようになってうまくいかないのでは、
自分の思うようにやってうまくいかない方がどうしたっていいし、
自分の思うようにやれば、その時点で自分のことは喜ばせられているわけだから、
しあわせだ。結果がどうあっても、満足する。
そして、
でも自分の本心から出るものの方が何百倍もパワーがあるわけだから、
伝わる確率も高くなってくるんじゃないか
そう思ったんだ。
そのことを、ランディさんの話を聞きながら改めて思った。
アール・ブリュット(アウトサイダーアート)のこと。
ウィキペディアには“特に芸術の伝統的な訓練を受けておらず、名声を目指すでもなく、既成の芸術の流派や傾向・モードに一切とらわれることなく自然に表現した作品のことをいう。”とある。
芸術ってなんだろうね。
私も、
ああ。この心のままにただただ魂を込めて歌って、
それがそのまま宇宙にとんでいったらいいなあ。
みんなの魂にもとんでいったらいいなあ。
変な期待とかさ、欲とかさ、そういうのと離れた 透明ででっかいものをさ。
とばしていけたらいいなあと思うんだよね。

*********
今回の旅では、死刑に関することと、
表現することに関して、
深く考える時間となった。
行けて本当によかった。
ことばたらずすぎるけど、本当に。
これからも、ずっと考え続けることになる二つのテーマだと思う。
神様の采配に、
感謝します。
機会のある方、もしくは 機会を自ら作れる方は
是非、鞆の津ミュージアムに足を運ばれてみて下さい。
また、それぞれの絵が、
どんな事件を起こした方の絵なのか、ということを知ると
さらに感じることは計り知れないと思います。
ランディさんと、
終演後に。
またいつかお会い出来るよう、
私もがんばろうと思います。

鞆の津ミュージアム ブログ
今行われている鞆の津ミュージアムでの死刑囚の絵画展で、田口ランディさんの講演会があり、
その一部で行われる朗読の伴奏を、カイさんが担当することになったからだ。
私のアーティスト写真などを撮ってくれている、津口るいちゃんのお兄さんが
今この鞆の津ミュージアムで働いていて、るいからお誘いを受けたのがきっかけだ。
話を聞いたとき、「ランディさんに会いたい!」と、わたしは飛び上がる程嬉しくて、
カイさんに「ぜったい行った方がいいよ!!」と強く勧めた。
カイさんも、ランディさんはもちろんのこと、この企画展のテーマにも興味を持ったようで
是非やってみたい、とのことで話が進んだ。
いつも、私が歌う ということが先にあって、カイさんに協力してもらうことばかりだけれど、
今回はそのカイさんがメインで頑張る ということで、
なんだか嬉しく、とても楽しみにしていた。

実際行ってみて、感じたことはたくさんあった。
死刑囚の方たちが描いた絵を見られる機会なんて そうそうないと思う。
いざ言葉にしようとしたら、
なんだか出て来ないな。
死刑囚は、死ぬことが刑なので、刑務所ではなく拘置所にいるということは初めて知った。
いつ刑がなされるかも、当日の朝に宣告されるシステムらしい。
なんというか…
すごいことだと思う。
隔離された世界で、みんな毎日何を思いながら過ごしているのだろう。
どうして、
死刑囚になってしまったのだろう。
なにが、そうさせてしまったのだろう。
死 に対して、どのような想いでいるのだろう。
もしかして、冤罪のひとがいたとしたら、そんなことがあったとしたら、
そのひとはどうこの事実をとらえて過ごしていけばいいというのだろう。
いろんなことを思った。
いまも、考えている。
このひとたちにとって、「表現する」ということはどういうことなのだろう。
というか、
ひとは常に、
「表現したい」と思って生きているのだろう、と思う。
わたし、を確立する為に。
確立したいと、
いつも思っていて、
それは、自然な欲求であって、
愛を求めることと 同等なことな気がする。
*********
ランディさんの朗読と講演も、心を揺さぶられて
たくさん泣いてしまった。
朗読したのは地下鉄サリン事件の実行犯である林泰男死刑囚との手紙のやり取りだった。
印象的だったのは、林氏の手紙の中で
『ハエの(蚊だったかもしれない)飛ぶ姿を見るだけでも心がわく』というような部分。
それぐらい、なにもない毎日なのだと思う。
そんな中で、絵を描き始める人や小説を書き始める人が多いそうだ。
それと、
林氏がランディさんに宛てた遺書。
いくつか書いているようで、その中のひとつを読まれた。
遺書か
と思ったら、胸に強い打撃を感じてなんだかそこにいるのがきついなと感じた。
きつかった。
カイさんのギターも、すばらしかった。
ランディさんの呼吸をしっかりと捉えて、
ことばの波長にしっかり合わせて弾いていた。
音楽の力もすごいものなのだとつくづく思った。
本番前のランディさんからの提案で急遽私も一曲、朗読の最後に歌わせていただくことになった。
familyという曲を歌った。
本番前、ランディさんに「レパートリーの中で一番コレ と思うのを、今歌ってみて」と言われて、
カイさんにも「familyじゃない?」と言われて歌った時、
ランディさんが「いいね!ばっちりだね!朗読の最後にお母さんのことを言う文で終わるからちょうどいい」
と言ってくれた。
「なにも考えないでもちゃんとなるようになるんだね。神様の采配だね〜」と、
言ってくれた。
朗読を聞いていて、前半はなんだかこの曲が本当に最後ふさわしいものであるのだろうか?と不安になったのだが、
結果的には、自然に流れに添った形で演奏ができたようで、
本当によかった。
どんな顔をして歌えばいいのか分からなくて、
林さんに向けて歌おうと思って、
歌った。

終演後も、ランディさんも「ぴったりだったね」と言ってくれて、
るいたちも ぴったりだったと言ってくれて、
本当にホッとした。
*********
そのあとのランディさんの講演も、心の奥まで届いてくる内容で、とても刺激された。
小説「コンセント」が、ランディさんの実話を元にしていたとは知らなかったので、
ランディさんが実際のお兄さんの話をしているとき、
感じすぎる私は、
その現場にいるような気持ちになってしまって、
全身が硬直し、
ひどくきつくなって涙がとまらなくて、ちょっとその場から逃げ出したくなった。
でも、
そのお兄さんのことでランディさんの中での何か殻がやぶけて、
「表現したい」という欲求がでてきたという話、
すごく、なんというか、
おもしろい、すごい、すばらしい
と思った。
誰かの目を気にして表現することと、
自らの欲求に対してだけ応えるために表現することは、
ちがう。
そして、
他人は関係なく、自らの気持ちから生まれる表現のほうが、
強く伝わるものを持っていると思う。
バンド活動の最後の方では、いつも私、このことを思っていたんだ。
周りのいうように作るものでうまくいかないのと
自分の思うようになってうまくいかないのでは、
自分の思うようにやってうまくいかない方がどうしたっていいし、
自分の思うようにやれば、その時点で自分のことは喜ばせられているわけだから、
しあわせだ。結果がどうあっても、満足する。
そして、
でも自分の本心から出るものの方が何百倍もパワーがあるわけだから、
伝わる確率も高くなってくるんじゃないか
そう思ったんだ。
そのことを、ランディさんの話を聞きながら改めて思った。
アール・ブリュット(アウトサイダーアート)のこと。
ウィキペディアには“特に芸術の伝統的な訓練を受けておらず、名声を目指すでもなく、既成の芸術の流派や傾向・モードに一切とらわれることなく自然に表現した作品のことをいう。”とある。
芸術ってなんだろうね。
私も、
ああ。この心のままにただただ魂を込めて歌って、
それがそのまま宇宙にとんでいったらいいなあ。
みんなの魂にもとんでいったらいいなあ。
変な期待とかさ、欲とかさ、そういうのと離れた 透明ででっかいものをさ。
とばしていけたらいいなあと思うんだよね。

*********
今回の旅では、死刑に関することと、
表現することに関して、
深く考える時間となった。
行けて本当によかった。
ことばたらずすぎるけど、本当に。
これからも、ずっと考え続けることになる二つのテーマだと思う。
神様の采配に、
感謝します。
機会のある方、もしくは 機会を自ら作れる方は
是非、鞆の津ミュージアムに足を運ばれてみて下さい。
また、それぞれの絵が、
どんな事件を起こした方の絵なのか、ということを知ると
さらに感じることは計り知れないと思います。
ランディさんと、
終演後に。
またいつかお会い出来るよう、
私もがんばろうと思います。

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